

| はじめに |
| 熊本市民の誇りであり、また、シンボルともなっている熊本城。戦国武将の加藤清正が築城したこの城は、規模の大きさ・縄張りの確さ・石垣の見事さなど近世城郭のなかでも屈指の城とされている。清正は城下町の整備だけでなく各河川の治水事業や干拓などを行い、人々には神様としても信仰されているほどである。加藤家2代忠広が改易になり、代わって細川家が熊本の領主になり、3代忠利が入国した。この後、明治時代になるまで徳川幕府と緊密さを保って熊本を統治した。この時代に育まれた文化は今も熊本に彩りをそえている。 |
| 熊本城が築城される以前 ― 隈本城 ― |
| 現在の熊本城は、海抜50メートルほどの高さのある茶臼山と呼ばれる山全体を取り込んで造られている。戦国時代の初期には、この山の一角に隈本城があったことが記憶にある。それは今の千葉城と呼ばれるNHK熊本放送局がある一帯で城主は菊池氏一族の出田山城守秀信であった。この秀信は文明17年(1485)に御船・陣原の戦いで戦死した。その後、鹿子木三河守親員が隈本を治めることになった。親員は城を現在古城とよばれているところに移した。第2期隈本城ともいえる城で鹿子木氏のあとに城氏が城主になった。豊臣秀吉の九州平定のあとに、この城は佐々成政に与えられた。肥後一国の統治に失敗した佐々成政は切腹させられ、この城に加藤清正がはいってきた。 |
| 加藤清正
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| 加藤清正の父である清忠の家は美濃齋藤氏に仕える武士であった。清正は、永禄5年(1562)尾張国愛智郡中村(現在名古屋市)に生まれ、同郷で親戚ともいわれる豊臣秀吉に仕えた。最初の戦功は天正9年(1581)の鳥取城攻めのときとされる。その後各地の戦いに武功をあげた。とくに賤ヶ岳の戦いでは七本櫓の一人として武勇を馳せた。 |
| 細川家
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| 細川家は足利氏の一門で近世細川家は三淵晴員の子藤孝が細川元常の養子になったことに始まる。藤孝は和歌や連歌など当時の第一の文化人であった。細川家は足利氏から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に従い基盤を固めた。2代忠興の時には関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)に付き勝利し、戦後は家康から豊前豊後の39.9万石を拝領した。 |
| 細川時代の熊本城
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細川忠利は城主になってすぐ城内の改造に着手し、幕府に修理の届を出している。また、本丸を修理するために、藩主が花畑館に移ったという記憶もある。それは城内の石垣を厳重にし、要所に櫓を増築するものであった。このことから、築城から約25年をへて城内の損傷が目立ったのであろう。しかし、結果からみると本丸御殿の改造などは行われたが、櫓の増設は実施していないところが多い。 |
| 西南戦争で焼失した熊本城
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| 熊本城は明治10年(1877)の西南戦争により焼失した。それは、2月19日午前11時過ぎで薩軍との戦闘が開始される前のことだった。折からの強い風にあおられて大・小天守閣をはじめ多くの櫓や建物が焼けた。残った宇土櫓や東竹之丸の櫓群は現在国指定重要文化財になっている。 |
![]() 熊本城攻防の錦絵 |
![]() 西南戦争で焼失する熊本城の図 |
| 復元される熊本城
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市政施行70周年を記念して熊本城天守閣の再建案が出た。その時、松崎吉次郎氏より私財5千万円の寄付があり、その機運がいっきに盛り上がった。昭和34年4月に起工、翌年8月に大・小天守閣は完成した。鉄筋コンクリート造だが、外観は古写真などをもとにして往時の姿をとどめる。その後、西大手門、数奇屋丸などが復元され、現在、南大手門の復元に着手している。熊本城築城400年にあたる西暦2007年を、短期復元の目途として種々の復元計画が進められている。 |
| 熊本城 復元予想図(写真) |
| 西暦 | 年号 | おもなできごと | |
| 1534 | 天文3 | 細川藤孝生まれる | 織田信長が生まれる |
| 1539 | 8 | 藤孝、細川元常の養子になる | |
| 1553 | 22 | 藤孝、足利将軍より従五位下兵部太輔に叙せられる | 織田信長、桶狭間で今川義元を破る(永禄3) |
| 1562 | 永禄5 | 加藤清正、尾張国愛智中村に生まれる | |
| 1563 | 6 | 細川忠興生まれる | |
| 1572 | 元亀3 | 藤孝、三条西実枝より古今集を伝授される | |
| 1576 | 天正4 | 清正、元服して加藤虎之助清正と名乗る | 信長、安土城を築城 |
| 1578 | 6 | 藤孝、明智光秀と丹後をせめる 忠興、光秀の娘玉(後のガラシャ)と結婚 | |
| 1580 | 8 | 藤孝、、信長より丹後をあたえられる | |
| 1582 | 10 | 藤孝、剃髪して幽齋玄旨と名乗る | 本能寺の変で信長殺される |
| 1583 | 11 | 清正、賤ヶ岳の合戦で活躍し、3千石を加増される | |
| 1585 | 13 | 清正、主計頭に任ぜられる 難波に本妙寺を創建 | 秀吉関白となる |
| 1587 | 15 | 清正、秀吉の九州仕置きのときに一時宇土城の守備につく | |
| 1588 | 16 | 清正、肥後半国を与えられ19万石の大名になり6月隈本城に入る | |
| 1589 | 17 | 清正、玉名郡横島村の干拓をはじめる | |
| 1592 | 文禄1 | 文禄の役で清正、小西行長などとともに朝鮮出兵 | 幽齋、秀吉に従って名護屋城に在陣 |
| 1597 | 慶長2 | 慶長いの役で清正、蔚山城で籠城して苦戦する | |
| 1599 | 4 | 秀吉死亡 | |
| 1600 | 5 | 忠興夫人ガラシャ死す(7月) | 幽齋、石田三成に攻められて田辺城で籠城(7月) |
| 忠興、豊前の国を拝領(11月)清正、家康から肥後全領(球磨を除く)を拝領(10月) | 関ヶ原の戦い(9月) | ||
| 忠広生まれる | |||
| 1603 | 8 | 家康、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府をひらく | |
| 1607 | 12 | 熊本城が完成 隈本を熊本と改める | |
| 1610 | 15 | 幽齋死亡(8月) 清正名古屋城天守石垣の築造 | |
| 1611 | 16 | 清正、3月秀頼の二条城の会見を成功させ、5月帰国の途中船上で発病、6月24日死亡 | |
| 1632 | 寛永9 | 忠広、幕府より改易され出羽庄内に配流される(6月) | |
| 細川忠利、肥後54万石の領主として熊本城に入る(10月) | |||
| 1638 | 15 | 光尚、天草・島原の乱に兵8千を率いて参戦 | |
| 1640 | 17 | 宮本武蔵、熊本城に来て住む | |
| 1653 | 17承応2 | 忠広、配流先の出羽庄内で死亡 | |
| 1691 | 元禄4 | 大火により坪井の道路が拡張され坪井広町となる | |
| 1748 | 寛延元 | 細川重賢、藩主として熊本入国し、宝暦の改革に着手 | |
| 1754 | 宝暦4 | 城内二の丸に時習館ができる | |
| 1756 | 6 | 再春館・薬園を設ける | |
| 1792 | 寛政4 | 島原温泉岳爆発(死者5520人、「島原大変、肥後迷惑」) | |
| 1810 | 文化7 | 伊能忠敬一行9月に天草上陸、次の7月まで肥後国内測量 | |
| 1821 | 文政4 | 八代・宇土・下益城郡の海辺700町新地できる(熊本藩最大) | |
| 1846 | 弘化3 | 霊台橋の工事始まる(1848年に完成) | |
| 1852 | 嘉永5 | 通潤橋の工事始まる(1854年に完成) | ペリー来航(嘉永6) |
| 1858 | 安政5 | 横井小楠、越前福井に出向 | |
| 1862 | 文久2 | 藩主韶邦の弟長岡護美、勤皇党を率いて上京 | |
| 1864 | 元治元 | 長岡護美、第1回長州征伐に出陣 | |
| 1866 | 慶応2 | 第2回長州征伐で溝口蔵人、軍を率いて出張 | 大政奉還(10月) |
| 1868 | 4 | 9月、明治と改元 | |
| 1869 | 明治2 | 版籍奉還、細川韶邦、熊本藩知事になる | |
| 1871 | 4 | 廃藩置県、細川護久、県知事となる | |
| 1876 | 9 | 神風連の変 | |
| 1877 | 10 | 西南戦争で熊本城が焼失 | |
| 熊本博物館 | ||
| 開館時間 | ||
| 入館料 | 大人・高校生 | 300円 |
| 中学生以下 | 100円 | |
| 熊本市内の小・中学生 | 無料 | |